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ドナー体験記



昨年(1999年)、骨髄バンクから適合する患者さんがみつかったと連絡を受け、ぶじ、骨髄の提供をさせていただきました。
わずかだが自分にもリスクがあること、家族の同意、種々の検査、仕事のやりくり、なにより、患者さんの生死を私の決断と健康が左右してしまうという怖ろしいこと。
1年近くがたった今、提供させていただいてよかったという心境を、綴ってみたいと思います。

7年前、高校の同窓会から

卒業生に協力の呼びかけがあった。
卒業生の子が、白血病にかかり、骨髄移植しか助かる道はないと。
ちょうど、骨髄バンクが設立されて間もないころで、バンクの知名度はまだ低かった。
かろうじて骨髄バンクの存在を知っていた私は、まよわず、バンクに登録することにした。
どうせなら、同窓生の子ひとりへの支援より、その子と同じ苦しみを抱えるすべての人を支援したい、と思ったから。

バンクへ登録

には、家族の同意がいる。
当時、独身だった私は、両親に、「骨髄バンクに登録すんで」と電話した。
正直、両親は登録してほしくなかったようだ。言い出したら聞かない私を説得するのは不可能と、あきらめていたようだ。同意したかどうかわからないけど、反対はしなかった。
ともかく、家族の同意はOK(ということにしておいた)。
仕事が休みの日、骨髄バンクへの登録を受け付けてくれている病院へ行った。
登録作業は、採血と、個人情報の記入。
登録した以上、ドナーに選ばれることを夢見るが、確率は低い。
不安や怖さはなかった。
登録していながらヘンなこと言うが、実際に提供するのはドラマの世界であって、自分には起こり得ないと、思っていたかもしれない。

同窓生の子の死

が知らされた。おおぜいの支援も間に合わなかった。
両親のメッセージがあったが、不思議と悲壮感はない。
支援者たちへの深い感謝と、なにより、短い生を自分たちの元で生き抜いた我が子へのいとしさ。
このとき、はじめて骨髄移植の意味の大きさとドナー登録したことへの覚悟がコンコンと自分の中でわいてくるのを感じた。
ぜひとも、提供するチャンスに恵まれたい。
でもそれは、自分の努力でどうなるものでもない。
その日が来るのを、祈って待つのみ。

第二次検査

の通知が来たのは、そのすぐ後。
やった!ドナーに選ばれる!と舞い上がった私は、入院の段取りを考える。
血液センターで採血し、「ドナーの可能性はどのくらいですか?」と聞く。
「第二次検査は、多くの人が受けます。でも、第三次検査まで行く人はわずかです」
第三次検査の通知は、待てど暮らせど来なかった。

6年後、第三次検査

の案内が来た。
忘れていたころ、とつぜん。
第三次検査までいくと、ぐっとドナーの可能性が高まる。
私は、健康には自信があった。
型が一致しさえすれば、きっと、ドナーに選ばれるだろう。
コーディネータさんと、電話でうち合わせ。
車で1時間ほどの病院で、検査を受けることになった。
3月のこと。
病院で、コーディネータさんと初めてお会いする。
穏やかで、腰の低い、感じのいい女性の方。
ドナーになるかも知れない私の志を大事にしてくれるのがよくわかった。
骨髄移植の具体的な詳細についてはまだ知らされないが、今後の予定について、説明を受ける。
今日は、血液内科の先生が、ずいぶんたくさんの採血をした。
採血後、貧血を起こして気分が悪くなった。
「めったに入れない場所ですから」と言って私を休ませてくれた所は、看護婦控え室。

検査後

2週間ほどで、検査結果が郵送されてきた。
ほとんどの項目が基準値におさまり、梅毒・HIVも陰性だった。
検査結果は「異常なし」
2ヶ月以内に移植の実施について連絡があるとのこと。
ちょうど4月に結婚した私は、さっそくつれあいに提供したい気持ちを伝え、理解を求める。
「いいよ〜」ってカンジ。
ところで、バンクからもらった説明書には、移植に伴う事故の報告が強調されていた。
一過性のものはどうってことないけど、麻酔による死亡事故が、イタリアで1件、日本で1件ある。
めったにないことだが、リスクがゼロではない。
2ヶ月以内に連絡というが、5月を過ぎてもまだ決まらない。
じれったく思うが、患者さんの容態が悪化したのかとも心配する。
そして、8月上旬、ドナーの最終候補者に選ばれたと連絡があった。

移植手術の1週間前から、患者は放射線治療を受け、自分の白血球を死滅させる。
そして、ドナーからの骨髄を受け取って、体内に定着させていく。
その間、菌に対する抵抗力が無くなるので、無菌室で過ごさなければいけない。
その段階で急に、ドナーが提供できなくなったら、それは患者には「死」を意味する。

最終同意

が、8月中に病院で行われた。
担当医、コーディネータ、私、つれあい、そして保証人として別の医師がテーブルにつき、私たちはコーディネータさんから詳しい説明を受けた。
特に、リスクが強調された。
もともと私ははっきりした意志があって決めたのだから、今さら迷うものでもない。
つれあいも、たんたんと、同意。

あとで聞いたことだが、つれあいはやはり、不安がないわけではなかったという。
「もし、自分の家族が白血病にかかって、骨髄移植しか助かる道がないとなれば、ドナーを求めるだろう。なのに、自分が提供できる側に立ったとき、拒否るのは自分の気持ちがおさまらない」と、考えたそうだ。
私への気遣いでなく、つれあいも、自分の意志で同意したのだった。

最終同意に合意することは、患者さんの生命を左右する立場に立つことになる。
もし、私が直前に意志が変わらなくとも、風邪を引いたり、交通事故にあったりすれば、患者さんは生きられないかも知れない。

提供へ向けて、自己採血

などの準備が続いた。
ドナー選定までは待たされたが、いったん決まると、トントン拍子。
心電図、肺機能など、種々の健康診断の他、自己採血が2回あった。
骨髄採取により、ドナーが貧血に陥らないよう、ドナー自身の血液を前もって採取し、保存しておき、骨髄採取の際に返血するのだ。
診察室のベッドに横になり、時間をかけて採血する。
第三次検査で貧血を起こしているから心配するが、とくに貧血は起こさなかった。
ただ、検査や採血で、ひんぱんに病院へ通わないといけないのは正直、負担だった。
会社勤めだったら、無理だろうと思えた。
たまたま私が、それに応じられる環境だったからよかったが。

入院を目の前にして

アクシデント。
いよいよ、入院の日程が詰められる。
私の予定もいろいろとあるのだが、患者さんの容態を最優先すべきだろう。
私は、できるだけ、融通を利かせた。
入院を前に、不測の事態が起きた。
入院の4日前に、つれあいが流産したのである。
精神的にも、動揺が大きい。もちろん、私も、ショック。
私の入院の直前に、つれあいが入院・手術。
自分たちの子どもの去っていった命。
自分たちが助けられるかも知れない命。

そして、入院の日が

 やってきた。
朝10時に病院へ行くと、コーディネーターさんが待っていてくれた。
私は2回、入院の経験がある。
盲腸と、足の骨折。
入院に対しての緊張や不安はない。
むしろ、今回は、健康体での入院だから、余裕すらある。
6人部屋の病室に入ると、他の方々は、病気で入院されている。
健康な私がここにいていいのだろうか?とふと感じた。

検査や説明に、

 次から次へと、担当医や看護婦さんが訪れてくださった。
手術部の若い女医さんが来てくださって、手術の段取りを説明してくれて、「不安はありませんか?」と尋ねてくださったのには、ちょっとビックリ。
過去2回の入院では、こんなことはなかった。
この病院は、評判がいいが、それは、どうやら真実のようだ。
しかし、やはり、健康な私にはおそれおおい待遇に思えた。
同室の方には、ガンで苦しんでいらっしゃる方もいたのだから。
初日、「健康な私が・・・」という居心地のおちつかなさのもと、夜を迎えた。
食事も、制限なしの普通食。
「豪華」とは言えないにしても、ステーキがでた。
明日はいよいよ採取。
万が一のことがないとは言えないが、不安はいっこうにない。
ぐっすり眠れた。

翌朝、早い時間に

看護婦さんが来て、浣腸。
健康体だし、便秘もしていないのに・・・
全身麻酔をかけるための処置だが、違和感をおぼえる。
同時に、手術へ向けて、実感がわいてくる。
10時ごろだったと思う。
服を全部脱いで、下着も脱いで、手術着に着替えた。
移動式ベッドに乗せられて、手術室へ。
歩ける私も、こうなると、患者だ。
気持ちの上で、すでに患者になっていた。

手術室にはいると、

口と鼻に吸入器を当てられた。
これが、全身麻酔。
説明は聞いていたので、「ああ、いよいよだな」と。
間をおかないうちに、眠りについた。

私の名前を呼ぶ声に

目が覚めたとき、どのくらいの時間がたっていたか、わからない。
ただ、猛烈な痛みに、悲鳴を上げた。
すぐに、痛み止めを注射してくれた。
即座に、痛みは苦痛でない程度にやわらいだ。
ベッドに寝たまま、病室へ連れて行ってくれた。
麻酔から覚めるまで、手術室にいたらしい。
先ほどまでの健康体とはうって変わり、私は自由にうごけぬ身となった。
人間の健康って、かくもはかないものである。
私は、動けぬ辛さより、やっと骨髄を提供させていただいた患者さんと同じ世界に立てたようで、逆にうれしかった。
尿道に管が入っている。
トイレにも行けないこの体・・・

病室へもどってきたのは

2時前だったようだ。
まもなく主治医の先生がやってきてくれた。
手術は、腰の骨に小さなドリルで穴をあけ、針を突き刺して骨髄を採取するのだが、1カ所からたくさんはとれず、数十カ所穴をあける。
しかも、わずかに皮膚を切開する。
私の場合、1カ所からとれる量が少な目だったため、通常より多くの穴をあけたという。
しかし、手術そのものは無事に終わり、私の骨髄が患者さんの元へ届けられたとのこと。
そして、家で留守番しているつれあいに、FAXで連絡を入れてくださったとのこと。
正直言って、昨日から今日にかけて、次から次へと検査やら説明やら手術やらが続いて、自分のことで追われていた。
手術がすんだことで、流産したつれあいのことが、気になり始めた。

痛みは

それほど激しくはない。
手術直後の、猛烈な痛みは、たった1度の注射でおさまってしまった。
ただ、時間がたつにつれ、腰のあたりに、鈍くて重い、どんよりとした痛みを感じるようになった。
4時ごろだったと思う。
看護婦さんが来て、尿道の管を抜いてくれた。
うっっ!と言うぐらい痛かったが、抜いたあとはすっきりした。
ベッドの上で、起きあがってみる。
うん、なんとか、起きられる。
トイレには、自分で歩いていく。

夕方、食事は

ふつうに食べられた。
私は、病気でもなく、ケガでもない。
食事がふつうに食べられるのは、当たり前のことだ。
なのに、ちょいちょいと、腰に針を刺したぐらいで、起きることさえ苦労する。
鈍い痛みは、あいかわらず。
でも、ずっと寝ているのはしんどい。
夜、部屋の外の公衆電話まで歩いていき、つれあいと、私の親に、手術が無事すんだことを報告する。
つれあいも、体を安静にしなければいけない状況。
精神的なショックもまだ大きく残っている。
それでも、私の無事を喜び、患者さんが良くなるといいねと、願った。

夜、痛みは

あいかわらずだが、気持ちはすっかり落ち着いている。
テレビを見たり、本を読んだりして過ごす。
ふだん、本を読む時間がなかなかとれないので、いい機会と思い、読みたくて読めずにいた本を5冊ほど、持ってきていた。
テレビは、あんまりおもしろくない。
インターネットが生活の中心になってくると、情報を受け身にうけとることに物足りなさを感じる。
入院生活は、時間を拘束されるようだが、ふだんできないことができる時間でもある。
私は「拘束」とは感じない。

手術の翌日、

腰の痛みは少しやわらいだが、まだまだすんなりとは歩けない。
食事はふつうにいただける。
食欲は、大きくもなく、小さくもない。
腰に痛みがある以外は、何もかもが、日常のままであるかのよう。
昼過ぎ、つれあいが、見舞い?に来た。
表面的には、落ち着いているように見えた。
つれあいは、私を見て、「思ったより元気そう」と思ったという。
ただ、私もつれあいも、申し訳なく感じたことがある。
そのとき私は、病室の中で最も重病人らしく見えた。
でも、私は、みるみるうちに回復し、明日には退院できるだろう。
同じ部屋に入院されていた方たちは、そうではない。
帰れる日が来るかどうかさえ、わからない人もいる。
私がここで寝ていることさえ、イヤミなことなのかもしれない。

近所のおじいさんが

同じ病院の違う部屋に入院していた。
再発したら終わりと言われていたガンが再発しての入院である。
本人は、そのことを知らない(ふりをしていただけかも知れないが)。
私は、つれあいといっしょに、そのおじいさんを見舞いに行った。
私が骨髄移植で入院することは、近所の人にもあまり言っていないが、そのおじいさんのお家には言ってあった。
闘病で苦しむおじいさんのお世話をしていらっしゃるおばあさん、私を見て、言った。
「なんと、なんの病気もない人がこんな姿になって・・・」
誰も苦しみたくないのをわざわざ自分から買ってでた、えらいヤツだ、という言葉がつづいたが、私たちには、ここにいることさえ、申し訳ないのだ。
えらいヤツなど、とんでもない。
私の腰の痛みなど、仮のものでしかない。
おじいさんの苦しみとは、根本的にちがうのだ。
おじいさんを励ます言葉もむなしく、「元気な姿でおうちに帰ってくださいね」と言って、自分の病室へもどった。
そして、つれあいは、家に帰った。
(おじいさんは、二度と自宅へ帰ることなく、2ヶ月後、いきを引き取った)

ガンで入院している

私の隣のベッドのおじさん、私に話しかけてきた。
「事情を聞かせていただきましたが、そういったことをしようというお気持ちがどういったものなのか、聞かせていただけませんか?」と。
「私はガンで苦しんでおるんですが、自分のことでさえ、こんなに大変なのに、見もしらん他人様のためにこんなしんどい思いをされている・・・」と、そのおじさんは続けて言う。
「私が提供させていただく患者さんは、私の骨髄がないと生きていけないんです。それに比べて、私のしんどさはこの程度のもんです」と、私。
たしかに、提供相手の患者さんのことも頭にあったが、いまは、つれあいのお腹に宿って去っていった小さな命を思う。
短い間に駆け抜けた、生と死。
生まれること、生きること、簡単なことではない。
ガンと闘って、それでも生きようとする人。
私の骨髄を必要として、遙かな苦しみと闘い続けている人。
「この程度のこと?とてもこの程度には見えませんが・・・」と、おじさん。
「でも、見えてるだけのものですよ」と、私。

その次の日は、

だんだん痛みもひいてきた。
とはいえど、やはり痛い。
じっと寝ていても、うずうずと痛いし、歩くとひりひりする。
もしかして、退院が少し遅れるかも。

骨髄バンクから

入院のお見舞いにお菓子をいただいた。
バンクのコーディネータさんが、見舞いに来てくださった。
第三次検査以降、親身に相手をしてくださって、感謝している。
私のようなものでも、こうやって骨髄の提供をさせていただくことができ、うれしい。
提供させていただいた相手が、どんな方か、その後どうなっているか、コーディネータさんにも知らされていないという。
1度だけ手紙のやりとりが認められているほかは、相手の様子を知るすべもない。
それでいいのだろう。
移植が成功したか、失敗したかという結果が大事なのではなくて、生きようと努力することそのものが大事なんだろう。
ドナーにとっては、生きようと努力する人に提供させていただいたこと自体が大切。

明日退院しますか?

と、看護婦さんが、きいてきた。
腰の痛みは、まだ歩くのも困難。
しかし、1日も早く帰りたい。
「ええ、退院します。もう痛みはどんどん軽くなっていますよ」と、私。
「そうですか。ま、日に日に良くなっていくでしょう。では、先生に伝えておきます」と、看護婦さん。
手術後1-2日で痛みはほとんど苦にならない程度に快復すると聞いていたが、私の場合は、そうではない。
まだまだ、ズンズンと響くような痛みがある。

夜、いろいろな気持ちが

私の中をめぐった。
入院したのは、わずか3日前。
もっともっと、はてしない年月が流れていったように思える。

昼食後、

つれあいがJRを使って病院へ来た。
手術の3日後のこと。
じんじんと腰が重く、痛い。
同室の方々にあいさつして、看護婦さんにあいさつして、病室を出た。
受付で精算するが、私には1円も支払いはない。
駐車場代は立て替えたが。
外の世界をまぶしく感じたのを覚えている。
病院の外へでたのは、入院したとき以来だ。
たかが5日間の入院だったが、娑婆が恋しかった。
軽く前屈みの状態で、駐車場へ向かって歩いた。

帰りはつれあいが運転を

してくれた。
私が運転をするのは、無理ではなくとも、しょうしょう危ない。
助手席に座っているだけでも、腰がシートにすれると、ヒリヒリするので、腰をずらしてなんとも情けない格好ですわっていた。
帰り道、野山を越えていく道沿いに、キリン草が生い茂っていたのだが、その光景が、つれあいの目に焼き付いた。
私は覚えていないのだが、つれあいは、1年後にキリン草を見たとき、病院から帰り道がフラッシュバックしてきたという。
もっとも、私は周囲の景色を楽しむほどの余裕はなかったのだが。

家につくと、

疲れてしまった。
腰がすれると、痛いばかりか、体力を消耗するらしい。
それから2週間ほど、自分で車を運転したものの、シートで腰がすれる痛みはかなりのものがあった。
歩くだけでも、なかなか体をまっすぐ立てられない。
日にちが薬と思えども、目に見えて回復をしなかった。
腰の痛みは、ほぼ1ヶ月続いた。
その間は、日常生活に支障がでるほどではなかったが、本調子には戻れなかった。
同じことを長時間続けられなかった。

術後検診が

あったのは、退院の1ヶ月後。
腰の痛みがやわらぎかけていた。
「骨膜下出血」が、痛みの原因だったそうだ。
手術のさい、出血が滞らないように、細心の注意を払って針を刺したり抜いたりしてくださったのだが、それでも、血がもれてしまうことがある。
外に出血する分にはそれほど問題はないのだが、骨盤の表面をおおっている薄い膜、骨膜と、骨とのすき間に、血がたまると、こんなふうにじんじん痛いそうだ。
血が引いていくのに、1ヶ月ほどかかるが、危ないものではないとのこと。
それ以外、血液の状態の回復などは順調だった。
1ヶ月をすぎると、ぐんと楽になっていき、1ヶ月半で、自覚症状が消えた。

患者さんの家族からの手紙が

退院して3ヶ月後に届いた。
正直、もう来ないものと思っていた。
患者さんのすべてが手紙を書くわけではないと、コーディネーターさんから聞かされていたし、長い時が流れたので、あきらめていた。
ドナーにとって、報いは、唯一、患者さんからの手紙だろう。
それが来ないとなると、むなしさを感じざるを得ない。
もしかしたら、骨髄を提供したことを後悔さえするかもしれない。
私がうけとった手紙には、一度しかドナー宛の手紙が許されないので、退院してから良い知らせを届けたかったと書かれていた。
患者さんは、順調な回復を遂げて、無事退院されたらしい。
いろいろな思いが、いっぺんに吹き飛ぶほど、うれしかった。
私にとって、最高にうれしいのは、患者さんやご家族が、別の機会に、どんな形でか、どこかの誰かの命のために、力を尽くそうとされることだ。
自分がそのきっかけを提供できたらいいなと、心の底から、そう思う。

厚生大臣からの感謝状が

感謝状届いたのは、年度末。
すべてのドナーに事務的に送られるのだろう。
その経費は、バカにならないにちがいない。
私としては、患者やドナーの負担軽減のためにお金を使ってほしい。
もらって悪い気はしないが、ドナーがほんとうに欲しいのは、感謝状ではない。
手術から1年後、骨髄バンクより、再登録の意思確認があったが、私は「1年間保留」を選択した。
ふたたび機会があれば、提供を考えたいが、生涯を通じ、昨年のように提供しやすい状況はなかなか自分に訪れないだろう。
少なくとも、ここ数年は、提供できないと思う。

骨髄提供者は

案外少ないらしい。
コーディネーターさんから聞いた話だが、第三次検査に進んだ人の3分の1程度だそうだ。
若いドナー候補者は、親が反対するらしい。
親が反対しない若い候補者は、一人暮らしゆえの不摂生により、健康診断がアウトになる。
働き盛りの候補者は、仕事ゆえ、アウト。
仕事を休める立場の管理職は、成人病でアウト。
人を救いたいと願う人は、自分自身が救える環境を整えられず、人を救える環境の整った人は、身内の反対にあう。
他人よりも自分がかわいいのは、誰にとっても当たり前。
でも、他人を救わず、自分が救われることがないのも、きっと、この世の定めだろう。
カネや権力は、最後の最後に自分を救う手段となりえない。
どんな金持ちにも、どんな権力者にも、病気はおかまいなしに訪れるし、死はやってくる。
おだやかで、優しい心をもって生きることが、病気を遠ざけたり、生をのばしたりする。
それでも、いつかは死ぬのだが・・・

ドナーになってみて

私の中で、なにも変わらない。
ドナーになったために、生き方が変わったという人も多いようだが、私は、特に変わったと感じない。
私にとって、骨髄提供は、日常の一部でしかない。
大きなことでもなく、小さなことでもない。
いつも、自分にできるいちばんいいことを、していたいと思う。
それは、人の役に立つことかも知れないし、だれの役にも立たないかも知れない。
誰かの役に立ちたいという気持ちを、多くの人がもってくれるようなきっかけを提供できたら、それがいちばんうれしい。
でも、最初っからそれを期待していては、きっと、空振りしてしまう。
願うけれども、期待はしない。
きのう、私が私であったように、きょう、私は私である。
そんな中に、骨髄提供の機会が訪れ、日々そのままに、ドナーに選ばれ、提供させていただいた。
様々な条件が整わないと、骨髄提供は難しい。
でも、いつになっても変わらないものもある。
骨髄提供することも、大地震の被災地へかけつけることも、重油を拾いに行くこともさりげない日常ならば、目の前のおじいさん、おばあさんをいたわることも、小さな命を慈しむことも、おなじくあたりまえの日常である。
明日もあさっても、いちばんいい私でありたい。
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