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ドナー体験記

OMPの骨髄ドナー体験記
序 ---- ドナー体験記を記すにあたり ( 1995年 秋 )

パソコン通信がきっかけで、骨髄バンクができるまでの仮登録、そして骨髄バン クが制度化されてからの本登録と、日本の骨髄バンクの歩みとともにパソコン通 信を続けてきた僕のもとへ、今年になって一通の封筒が届いた。

「骨髄ドナー第三次検査のご案内」、つまり、レシピエント(骨髄移植を待つ患 者さん)と僕のHLA型が一致し、僕がドナー候補となったことを知らせる手紙 だった。

骨髄移植は、血液疾患、その中でも血球形成に問題がある白血病や再生不良性貧 血などの病気治療のために、レシピエントとHLA型が一致したドナーから骨髄 液の提供を受け、あらかじめ放射線照射で問題となる血液幹細胞をなくする処置 を受けた患者さんに、ドナーからの骨髄液を点滴し、生着させて健全な血球形成 をうながす治療法である。

全国には、毎年2000人以上の骨髄移植を希望する患者さんがドナーの出現を 待ちわびている。

骨髄バンクの存在がAC広告機構のCM、CFによって、多くの人に知られるよ うになったとはいえ、骨髄移植がどのようなものであるかについて、まだまだ誤 解をされている点も多い。

いのちのボランティアともいえる骨髄バンクだが、現在ドナー登録申請をされて いる方も含めてのドナーの規模は10万人をやっと超えたところにある。

第一次検査を済ませたドナー登録者数は、本年7月末現在65,000人。
(※ 1996.08.06現在、登録者実数74,066人、2次検査済み登録者数52,681人)

バンク登録している人の数が10万人を超えると、骨髄移植を待つ患者さんのお よそ90%にドナーが見つかると言われているが、現状ではドナーの出現を待ち わびつつ病魔に召されていく人たちも残念ながら多い。

献血にしてもそうだが、医療が高度化し需要が逼迫する血液を支えているのは、 世にいう「ボランティア」の人たちでもある。

僕は、そのような「ボランティア」つまり「善意の自発的行為」として献血や骨 髄バンクが理解されることには大いなる疑問を感じている。

もちろん、「ボランティア」の精神をないがしろにするものではない。

ただ、「万民は一人のために、一人は万民のために」、お互いが共に助け合って 社会を形作っていく精神土壌は、もっともっと耕やされていくべきじゃないか、 昨今の献血人口の停滞を耳にする時、そんなことを感じる。

献血ほど気軽にできないのが骨髄(液)移植(輸血)でもあるが、ひょっとする と「明日は自分がドナーの出現を待ちわびる一人」となるかもしれない、そんな 時がやってこないと骨髄バンクの意義を実感できない人も多いかもしれない。

「命を救ってあげられるかもしれない」、でも「自ら危険をおかしてまで、なぜ 他人の命を救う必要があるのか」、骨髄バンクドナーになることへの抵抗はこの 言葉に代弁されるのが実際のところではないだろうか。

しかしながら、高額医療負担に備えての保険に加入する気持ちはどこから来るの か。

お金で解決できる問題だけなのだろうか。

今回、僕は第三次検査(複数ドナー候補の中から最適ドナーを見つけ出す検査) の結果、最終ドナー候補となり、自らの意志で骨髄ドナーとなることを決めた。

もちろん、骨髄ドナーとなることへの家族の心配、反対もあったが、このしくみ を説明しながら理解してもらった。

PC−VANやNIFTYの中には、骨髄バンク関連の情報を交換しあうメール グループ、それから財団関係者、医師、バンク支援団体のメンバー、バンクやド ナーに関心のある人、患者としてドナーの出現を待っている人たちが集うパティ オが活動を行っている。

子供たちに多い白血病、子供たちの未来を救ってあげるためには骨髄移植は大き な力となることができる。

1986年のチェルノブイリ原発事故から9年たった今でも、風下で放射能汚染 を受けた地域に今なお甲状腺障害、白血病の子供たちが増加を続けている。

便利さの中で隣り合わせているちょっとした危険、チェルノブイリの惨劇は国内 だけの安全性論議だけでは解決しえない「核」の恐さも教えている。

本文が骨髄移植、骨髄バンクへの理解の一助となることを願って、ドナー体験記 を公表したいと思う。

今回の僕の骨髄採取にあたり、献身的なケアーをして下さった医療関係者ならび に情報提供をして下さった骨髄バンク関係者の方々、そして心配をかけた家族に 心より感謝いたします。

なお、骨髄バンク制度の性格上、ドナーとレシピエントの関係は一切当人同士に 知らされない事になっています。

僕も、レシピエントが何処にいて、どんな方なのかについては一切知らされてい ません。

よって、僕がドナーであることを特定させる採取月日等は申しわけありませんが 伏せさせていただきますので、ご理解下さい。
 

1章 骨髄採取前日 ---- 入院から事前の諸検査など

[骨髄採取前日]

AM 6:42
札幌の骨髄採取病院に向けて、朝一番の列車で帯広を発つ。


PM 0:00
札幌H病院着、新患受付け後に看護婦さんに案内されて4階の病室に案内される。 一般病棟が一杯のため、幸か不幸か、無菌病室となる。テレビの番組で、無菌室 の様子は知っていたが、まさか中から無菌室が体験できるとは運がいいというべ きかもしれない。病室にて着替えをし、患者さんスタイルとなる。さっそく検温、 血圧と脈拍を計っていただく。「昼食はなさいましたか」と看護婦さん、食べて いなかったので、病院食をいただく。

PM12:40
食事後、さっそく、麻酔科の先生に問診と簡単な診察を受けるたあと、これから のスケジュールの概略と全身麻酔の説明などを受ける。手術室には、明日朝9時 30分に入り、出るのは11時半か12時頃になるとのこと、「眠っている間に 終わってしまいますよ、ご安心を」。

PM 1:10
検査用の採血と明日の点滴用の血管確保のための注射針が右手首の上に刺さる。 検尿用の紙コップが渡される。針が右手に固定されているので、ちょっとキーボー ドを打つのがしんどい。

PM 2:15
看護婦のMさんより、明日のスケジュールを書いた説明書をもらう。既往症の有 無、ならびに喫煙、酒、アレルギーなどのチェク用紙での確認があり、その後に 病棟の案内をしていただく。トイレ、浴室、洗面所、電話、それから消灯時間な どの説明を受ける。パソコン通信ができる環境があるかどうか尋ねたが、残念な がら無理のようである。本日の入浴時間は、午後2時30分から4時までとのこ と。

PM 3:20
手術担当医の回診、血液検査の結果、少々血糖値が高かったが、問題はないとの こと。聴診と腹部の触診を受ける。

PM 3:40
入浴。入浴時、点滴用のチューブに水がかからないよう、その上に透明のシール を3枚貼られる。

PM 3:55
レントゲン撮影。胸部と腹部の2枚。続いて、地下1階の心電図室にて、心電図 をとる。心電図をとってから、呼吸器検査。肺活量など、4種類の測定を行う。 4時15分に部屋へ戻る。

PM 4:40
点滴用の注射針から血液もれのため、再度針の刺し直しとなる。とりあえず、針 を抜く。抗生物質アレルギー判定用のパッチテスト。生理食塩水、抗生剤の2本 の皮下注射。15分後に判定とのこと。

PM 5:00
移植コーディネーターK先生と初めての対面。「遠方より、ご苦労様、病院の方 でも、骨髄採取にあたっての承諾書をあとで書いていただきますね。レシピエン トの体重は**kg、採取する骨髄液は恐らく***ccになると思います。採 取しながら量を計りますので、量に達ししだい終了します。*時間程度の時間だ と思います。経過にもよりますが、明後日には退院できるかもしれません。どう か、よろしくお願いいたします」とご丁寧なご挨拶。病室に戻ってから、先程の パッチテストの判定。両方に同じような赤みが出たため、看護婦さんたちも初め てのケースとしばし悩む。K先生のご判断で、問題なしとなる。

PM 5:10
再度、点滴用の針の刺し直し。今度はうまくいく。Mさん、ご苦労さま。

PM 6:10
夕食。室内灯のつけ方を聞いていなかったので、教えてもらう。「この部屋は、 不便なようで結構便利なんですよ」と看護婦さん。ベッドも電動で、頭と足の部 分が上下できる。ひょっとして、明日はこの装置のご厄介になるのかな。明日は、 夜まで食事ができないとのことなので、しっかり味わうことにしよう。

PM 8:05
看護婦さんが、睡眠薬を持って来てくれるが、飲まずに眠れそうなら無理して飲 まなくてもいいとのこと、ひとりあえずいただいておく。

PM 9:40
暑くて寝苦しそうなので、出された睡眠薬を飲む。熟睡。

2章 骨髄採取当日 ---- ドナー体験、麻酔のことなど

[採取当日]

AM 5:00
目が覚める。

AM 5:15
採血。

AM 6:07
部屋で浣腸をかけられる。事前に理解済みなので、抵抗なし。

AM 6:25
上半身の肌着を脱ぎ、寝間着を丈の長いものに着替える。

AM 6:30
点滴、ラクトリンゲル液点滴を開始する。「チューブの中に気泡が残っていても いいんですか?」と尋ねると、「気泡は全部は抜け切りませんが、多少入っても 問題ないんですよ」とのお答え。知らなかった。右手を使うと点滴の出が悪くな るので、左手だけでキーボードを叩く。

AM 7:25
検温と血圧測定、体温36.5゜。麻酔の効果をよくする錠剤を3錠飲む。 「ちょっと眠たくなると思いますが、気分が悪くなったらナースコールして下さ いね。」と看護婦さん。

AM 8:20
薬が効いてきたためか、ついついうとうとするようになる。看護婦さんの声で目 が覚める。やはり、薬は薬だと感心する。

AM 8:30
担当のM看護婦が様子を見にきてくれる。ついつい、うとうとしてしまう。

AM 9:05
血圧測定と脈拍測定。血圧110。

AM 9:15
ブリーフを脱いで、紙性のT字帯にはき返る。T字帯は、いわば紙製のふんどし。 そろそろ手術室に入る時間が近づいてきている感じ。手術用の帽子をかぶされる。

AM 9:25
ストレッチャーに移動。2階の手術室に入る。無影灯の下に横たわると、「いよ いよなんだなぁ」と感じる。心電図用の電極を足、胸、それから指先につけられ、 最初に酸素をマスクで送られる。程なく、意識が無くなる。話には聞いていたが、 本当にアッという間に麻酔による眠りに入ってしまう。もちろん、夢を見る間も ない。空白の2時間15分。うつぶせになり、背骨の下の腸骨(腰骨)に数箇所 穿刺用の針が(骨の中心部の空隙、血液がつくられるところ)僕の骨髄液を輸血 用のパックに運ぶ作業が続いているに違いない。

AM11:40
ぼんやりと名前を呼ばれているような感じがして、もうろうとしながら意識が戻 る。「今、何時ですか?」と尋ねたような気がする。

PM 0:00
病室に戻って来る。ストレッチャーからベッドに移されるが、やはり導尿カテー テルが入れられていて、なんとも言えない違和感がある。ちょっと動くと痛みを 感じる。さっそく、事前採血しておいた自己血の輸血が開始される。麻酔の気管 挿管のため、のどがいがらっぽく、痰がからむような感じがして少し痛い。起き 上がれる状態にないので、しばらくキーボードを操作できず。よって、以降の時 間記述はしばらく記録できない。

時刻不明
自己血輸血後から、点滴が始まる。栄養補給、出血防止、抗生剤等、次から次へ と点滴が続いていく。その間、医師の回診が2度、貧血の有無を確かめる採血一 回、体温測定一回(36.5゜)。医師の指示により、4時までと言われていた 酸素マスク着用も2時30頃に本人の希望ではずしてもらう。皮膚の穿刺痕は左 右2ヶ所づつ、計4箇所とのこと。骨髄採取量は***cc。麻酔の余韻もある かもしれないが、痛いというよりも、重い感じがする程度。それよりも、導尿カ テーテルの方が動くたびに痛みを感じる。こちらも、4時20分頃、M看護婦に はずしてもらう。さすがに、チューブを引き抜く時は痛かった。抜去後は実にすっ きりと快適に感じる。よかった、よかった。

PM 6:20
夕食。朝昼を食べていなかったので、食事がとてもありがた感じる。

PM 7:00
麻酔担当医師の訪問を受ける。手術室に入った際、意識が無くなっている時の様 子を後で教えて欲しいとお願いしておいたので、それに応えにきてくれた。麻酔 の話、道内の骨髄バンク医療の現状など親切にお話していただく。術後の痛みに ついては、非常に個人差があり、後日の痛みも程度の差が大きいとのこと。さて さて、果たして明日はどの程度の痛みが残っているだろうか。ちなみに、この病 院における入院日数は、ほとんどの場合、前日入院、当日採取手術、翌日夕刻に 退院のパターンだそうである。

PM 7:10
最後の点滴(4本目)。さすがに4本目の点滴となると、いささかうんざりして くるが、意味のない点滴などあるはずもなく、ひたすらポタリポタリと滴下する のをながめている。

PM10:05
やっとのことで、最後の点滴が終了する。これでひとまずチューブにつながれた 状態から開放されるわけだが、傷からの止血がまだ十分ではないようなので、S 看護婦さんに見てもらう。傷口の消毒と、ガーゼの交換。本来であれば、安静に していて止血を待つところだが、「まぁ、この程度なら外のトイレに歩いて出て も構わないかもしれない」とのことだった。S看護婦さんは、3年前まで帯広K 病院にいらしたとのことで、地区コーディネーターのK先生もよくご存じだった。 同郷の人と話ができて、なんとなくホッとする。動けなかった分、排尿も我慢し ていたため、点滴が終わるとすぐにトイレに歩いて出る。術後の尿の量も大切な チェックだそうで、尿はカップに受けて、個人別に用意された計量用パックに入 れる。

3章 骨髄採取翌日 ---- K先生の言葉、退院、帰宅

[採取翌日]
AM 4:00
「これまでの点滴の量だと、夜中に数度のトイレに行くことになるかもしれませ んよ」と看護婦さんに言われたとおり、いよいよ我慢できなくなってトイレに。 腰も曲げる時に鈍い痛みを感じるが、想像していたほどの痛みではなかった。点 滴の色と同じ様な尿の色になると言われていたとおり、見た目は尿というよりも 点滴の液そのものといった雰囲気。水を口にしたわけでもないのに、血管に流し こまれる点滴液が帳尻を合わせるように尿となって出て来ることに、我ながら体 の働きに敬服する。

AM 5:15
朝一番の採血、検査用の試験管3本の採血を受ける。看護婦さん、いつもご苦労 さま。術後の発熱も心配していたので、体温を計ってみる。36.5゜、平熱だっ た。

AM 7:15
傷口の消毒とガーゼの交換。血圧測定。ベッドで横になっているよりも、起き上 がっている方がいい。まだ少し、のどがいがらっぽい感じがするが、手術直後か らすれば大部すっきりしてきた。

AM 9:15
婦長さんが様子を見にきてくださる。今日、帰宅の予定である事を伝える。出血 は止まっているとの事、採血の結果も含め午前中に先生の回診があることをお話 しいただく。

AM 9:50
点滴。この点滴が最後とのこと。麻酔担当の先生が、様子を見にきてくださる。

AM10:00
骨髄バンクより、花束が届けられる。ちょっとした気遣いがうれしいものだ。

AM10:05
医師回診。聴診。点滴が終われば、いつ退院してもよいとのこと。これから3日 間は抗生物質の投薬があることを告げられる。「痛みはどうですか、座薬は使い ましたか、夜は眠れましたか」との質問、押さえると痛む場所がわかる程度、そ れから腰を曲げるとちょっと痛みを感じる程度と伝える。夜は、点滴の影響か尿 意のために眠ったような眠れなかったような。ともかく、早く退院できることが 何より嬉しい。

AM10:50
傷口の消毒。看護婦さんより、帰宅後の入浴時の保護シールと消毒綿の使い方の 説明を受ける。3日程度で、その必要もなくなるだろうとのこと。

AM11:10
担当医の指示により、点滴も半分で結構とのこと、ようやく点滴チューブから開 放される。看護婦さんより、抗生物質と痛みが出た場合の座薬がわたされる。

AM11:17
コーディネーターのK先生にご挨拶。「ありがとう!」とかたい握手を受ける。 思ってもみなかった握手に、骨髄バンクに関る人たちの熱意と温かさを痛感する。 「本当にお世話になりました」、と僕。骨髄移植は、単にドナーとレシピエント のHLAの一致にとどまらない、多くの関係者のチームワークと思いやりによっ て支えられている。誰一人欠けてもこのバンク制度は成り立たないし、誰もがレ シピエントの快癒を切望しているに違いない。K先生の握手、僕はそんなチーム ワークの一員になれて本当によかったと感じた。「地区コーディネーターのK先 生によろしくお伝え下さい」とK先生。担当医のN先生、わがままなドナーでし たが、本当にお世話になりました。

PM 1:10
昼食をいただいてから、着替えをし、ナースステーションに退院の挨拶に行く。 それぞれの看護婦さんたちは忙しく病室を回っているため、皆さんによろしくと 居合わせた看護婦さんに伝言をたのみ、病室を後にする。思っていたよりも、と ても術後の負担を感じないで済んだのは、恐らく事前知識と医療スタッフへの信 頼のためだったようにも感じる。不安を抱かないで、極力リラックスの状態を心 掛けていたことが、回復の早さにつながったのかもしれない。

PM17:30
札幌市内の書店で本をあさり、帰り路の列車に乗り込む。思ったほどの痛みもな く、座席に腰掛ける。「一仕事、終わったんだなぁ」、レシピアントのことも気 にかかるが、なぜだかホッとする。

PM21:00
丸二日間、駐車場で主の帰りを待っていた車を運転して、自宅に帰る。家族が心 配そうな顔で出迎えてくれる。これも、全国のドナー体験者のお宅できっと見ら れるいつもの光景に違いないと感じる。心配をかけた家族に感謝。

[退院翌日以降」
腰に負担をかけない程度と思いながら、普段とさほど変らない農作業を続けてい る。腰骨の4箇所の採取痕が乾くまで、日に一回、消毒綿球で注射痕を消毒した 後、市販の傷パッドを貼り替える。退院後、数日は入浴時にその上から渡された 保護シールを貼る。抗生物質の錠剤を3日間、食事後30分にて服用。鎮痛時の ために座薬も渡されたが、痛みがないのでお世話になることはなかった。就寝時、 腰をベッドに当てると、なんとなく採取部位の存在を感じる。痛みの程度は個人 差が大きいとは聞いていたが、過大な心配が痛みを助長するのかもしれない。痛 みをほとんど感じていない僕の場合、それが限りなく小さかったことが幸いして いるのかもしれない。パソコン通信を通じて様々な情報を与えて下さった電子友 人諸氏の存在も忘れてはならない。腰に残る骨髄採取の針痕はほどなく癒えるが、 レシピエントの病気との闘いはそれよりもはるかに長い。快癒を願わずにはいら れない。

4章 ドナー体験余話・ ---- 骨髄バンクとの出会い

1992年、骨髄バンクにドナー登録が始まって以来、平成7年7月末までに登 録を終えた人の数は65,968人、一方、ドナーが現われることを待っている バンク登録患者の数は同じく7月末現在、3,242人となっている。

骨髄バンクを通じての非血縁者間骨髄移植の実施症例数となると、1992年1 月の1例から始まり、本年7月末までに471例が全国各地の移植医療を手掛け る病院で行われている。

月間の骨髄移植症例数は、バンク登録ドナーの増加に伴って、年々多くなってき ており、本年であれば概、月間30例前後の骨髄移植が実施されている勘定にな る。

PC−VANの情報提供の中にも、本年より骨髄バンク情報のコーナーが誕生し、 骨髄移植やバンクに関する情報が提供されている。(JMARROW)

僕が骨髄移植に関心を持つようになったきっかけは、1986年4月26日に旧 ソ連ウクライナ共和国北部で発生したチェルノブイリ原発の事故報道に遡る。

事故直後、「アメリカの骨髄移植治療チームがソ連に派遣された」というニュー スが、僕の「骨髄移植医療」との出会いということになる。

これは、1987年に出版された広瀬隆さんの「危険な話 チェルノブイリと日 本の運命」の中でも当時のニュース記事からの紹介があるが、放射線障害が起因 と考えられる血液疾患とそれに立ち向かう骨髄移植医療の存在が原発事故ととも に鮮明に印象づけられた。

1989年にNHKサイエンススペシャル驚異の小宇宙「人体」のシリーズが放 映され、第6話「生命を守る−免疫」が骨髄移植医療のドキュメントを題材とし て免疫のしくみを紹介していた。

骨髄移植のドキュメントの主人公である小坂仁美さん(1988年、当時13才) はNHK帯広放送局スタッフの収録による北海道青少年民謡大会出場後の2ヶ月 後、再生不良性貧血に冒され、骨髄移植を受けるために名古屋第一赤十字病院に 転院してくるところからドキュメントは始まる。

当時はコンピュータグラフックスを駆使した最新の映像表現を取り入れたスペシャ ル番組として、また、人体を科学的に紹介する番組として話題となったシリーズ だが、その中でもこの番組は僕に決定的な影響を与えたといってもいい。

僕は骨髄移植医療の実際に一連の映像として初めて触れ、免疫のしくみを解説す るために何故「骨髄移植」が題材としてとりあげられたのかを知ることとなった。

一人の家族の病気を救うために家族全員が懸命に頑張る姿、幸いにして小坂仁美 さんには白血球の型であるHLA型が姉である理恵さんと一致していたのだ。

HLAとは、MHC抗原と呼ばれるタンパク質の設計図となる遺伝子群をさし、 MHC抗原(主要組織適合抗原)とは60兆個にも及ぶとされる人間を構成する 細胞ひとつひとつの表面にある「自己」を認識する印(マーク)の働きを担うも のとされている。

体内に侵入してくる病原菌などに対し、それを攻撃する白血球がどうやって「自 己」と「非自己」を区別できるのか、実はこの「自己」を見分けるためのタンパ ク質が大きな役割を演じている。

このMHC抗原の設計図となる遺伝子群は「HLA遺伝子群」と呼ばれ、A・B・ C・D・DR・DQ・DPと命名された対立遺伝子で構成されている。

骨髄移植は、このうちA、B、DRの3つの遺伝子型について一致するケースで 行われていてのだが、HLA−Aには26種、HLA−Bには56種、HLA− DRには21種の型があり、しかも父方からの遺伝子、母方からの遺伝子それぞ れにこれらの遺伝子が乗っているため、これら3つの遺伝子対の組み合わせだけ でも計算上ではおよそ9億通りの場合があることになる。

実際には、これらの遺伝子群は「交叉」という遺伝子の乗り換えが起こりにくい 距離に並んでいるため、組み合わせの確率は数万通りと小さくなるのだが、それ でもいかにHLA型が非血縁者間で一致しにくいかが分かる。

ただ、兄弟姉妹間では1/4の確率でHLA型が一致するわけで、小坂仁美さん の場合も運よく姉の理恵さんと同じHLA型だったというわけである。

少子化が進む昨今、血縁者に骨髄提供が受けられないケースが多いのはしかたの ないことなのかもしれない。

であればなお一層、「いのちのボランティア」ともいえる骨髄バンクへの理解は 骨髄移植に期待する患者さんやそのご家族への励ましとなりうるのだと思う。

この番組が作られた当時、日本には骨髄バンクの制度は出来ていなかった。

非血縁者間の骨髄移植には、ドナー(骨髄提供者)への身体的負担や麻酔事故な どの危険性の問題に検討の余地ありということで、厚生省が制度化に慎重だった ためだ。

僕たちがパソコン通信での仲間たちとの出会いを通じて、骨髄バンク設立への支 援を始めたのは1989年頃からだったと記憶しているのだが、国内での骨髄バ ンクの制度化に向けてのボランティアたちによるネットワークづくりは1988 年当時にはすでに活動を行っていた。

イギリス、アメリカではすでに出来上がっていた「骨髄バンク」がどうして日本 にないのか、骨髄バンク設立を求める関係者たちの声がさまざまな出会いを通じ て厚生省の重い腰を上げさせたのじゃないかと、設立支援のネットワーク活動に 参加していた僕にはそう思えてならないのだ。

骨髄と脊髄を勘違いして、骨髄移植に対して無理解な拒否反応を示す人もまだま だ多いのかもしれないが、そうした人たちにこの移植医療の実際を知ってもらう ためには、やはりテレビなどの映像マスメディアの果たす役割は大きいかもしれ ない。

5章 ドナー体験余話・ ---- 麻酔科A先生の言葉

番組の中で、仁美さんが骨髄移植を受ける前処置として強い放射線を浴び、他の 細胞よりも放射線に弱い白血球や骨髄幹細胞(血液が分化するもととなる細胞) を殺してしまう場面があった。

これは、血縁者間移植でも非血縁者間移植でも同じ処置で、それ以降、患者さん の体には自ら外敵たる病原菌と闘う白血球の働きはなくなってしまう。

そのために、前処置が終わるとただちに無菌室と呼ばれる特別に管理された病室 に移され、その中で骨髄移植のために提供された骨髄液の点滴を待つわけだ。

骨髄バンクのしくみでは、ドナー希望者は原則的にある段階を除いていつでもド ナーとなることを辞退できることになっている。

ただし、それは第三次検査時の骨髄ドナーの同意確認の時までで、最終同意書に 本人サイン捺印し、さらに配偶者あるいは近親者の同意サイン捺印があってから の翻意は健康上の問題がない限り認められていない。

最終同意書作成にあたっては、弁護士立ち会いを行うところも出て来ている。 (骨髄バンクの正式名称は「財団法人骨髄移植財団」といい、各地区に地区調整 委員会事務局がおかれていて、例えば北海道地区調整委員会事務局は北海道内の 移植医療機関、移植コーディネーターとドナー間の調整事務を担当している)

翻意が認められない訳は、お分かりの通り、一度レシピエント(骨髄の提供を受 ける患者さん)が前処置を施されてしまえば、どんなことがあってもドナーから の骨髄提供を受けなければ死を待つしかないからに他ならない。

無菌室で、強い放射線の影響から体調が弱り、吐き気に襲われながらも、ドナー からの骨髄液の提供を待つわけなのだ。

僕はドナーとなる体験に加え、さらに無菌室でドナーとしての一時を過ごす機会 に恵まれることができた。

この部屋の中で、ドナーからの骨髄提供を待つレシピエントが懸命に病気と闘っ ているのだと思うと、健康に恵まれている自分がいかにも脳天気だったと感じて しまう。

そして、部屋の中と外をつなぐインターホーンごしに、どれだけたくさんの肉親 との会話が交わされてきているのだろうと想像させられる。

いくら骨髄バンクの制度があるからといって、患者側の負担が著しく軽減される 訳ではなく、ドナーの検査に要する費用、それからドナーの骨髄採取に要する入 院費用等は患者側負担になっている。

「当たり前」と言ってしまうのは容易いが、いい加減な気持ちでドナー登録し、 安易にドナー辞退をしてしまう人もいないではないと聞く。

藁にもすがる思いでドナーが現われることを心待ちにしている患者さん側の心情 を察する時、そしてドナー登録に要する費用が患者負担で賄われていることを思 う時、僕は一人でもそんな人が減ってくれればと思うのだ。

入院中、僕に手術時の様子を説明にきて下さった麻酔担当のA医師は、無菌室の ことについてこんな話をして下さった。

「骨髄移植を行うためには、単に立派な無菌室があるだけではだめなんですよ。 無菌室を作るにはかなりお金がかかりますが、せっかく造っても実際には利用さ れていない無菌室、あちこちにあるんです。なぜかというと、この無菌室は、医 師、看護婦、そして無菌室掃除のおばさんたちのチームプレーがあって初めて機 能するものなんです」

体験記の中で、僕は「お金で解決できる問題だけなのだろうか」と書いた。

世の中には、まだまだ「お金で健康は取り戻せる」と考えている健康人も多いか もしれないが、でも本当にそうなんだろうか。

非血縁者間骨髄移植医療は、レシピエントとドナーがいれば成り立つものでは決 してない。

そこにコーディネーターがいて、検査関係者がいて、ドナーやレシピエントのケ アー、術前、術後管理、無菌室を維持する看護、清掃スタッフがいて、そんな一 人一人のチームワークがあって初めて成立するものだということを一人でも多く の人の知っていただきたいのだ。

退院の日、移植コーディネーターのK先生は別れ際に僕にかたい握手をして下さっ た。

突然の握手に戸惑うと同時に、K先生の「ありがとう!」の一言が骨髄バンクや 骨髄移植医療を支えるたくさんの人たちの存在を僕に教えてくれたような気がし た。

オウム真理教絡みの殺伐とした人間倫理があたかも世相の一つのように語られて いるようだが、どっこい「こんなに温かい人の輪もまだまだあるんだ!」、僕は ドナーとなれた幸運を感謝したい、もちろん、日本のどこかで病気とたたかって いるであろうレシピエントの快癒も願って。

ドナー体験を通じて感じたのは、骨髄バンクの関するたくさんの知識、それはも ちろんたくさんの電子友人たち、骨髄バンク関係者からもたらされたものだが、 そうした知識がドナーになることへの不安を限りなく小さくしてくれたことだっ た。

恐らく、大半のドナー体験者は限られた情報、知識のもとに多少の不安を抱えな がら痛みや後遺症を気遣ったのではないかと思う。

パソコン通信がいろいろな欠点も数多く持ったメディアであることは残念ながら 否定できないが、何のために利用するかを十分に自覚しさえすれば、僕はこのメ ディアはとても素敵なメディアだと思うのだ。

このメディアを通じて、一人でも多くの骨髄バンク理解者の輪が広がってくれる ことを願って。

あとがき

この体験記は、昨1995年にパソコン通信ネットワーク上に公開したものです。

全国各地に地道な活動を行うボランティア組織が相次いで誕生してはいるものの、 骨髄バンクドナーの登録者の伸びは停滞気味であることが伝えられています。

ドナー登録者が増加する一方で、ドナー登録を辞退する方たちもいないわけでは ありません。

骨髄バンク支援の輪を広げていくということは、結果的にドナー登録者数の増加 に結びついてはいくかもしれませんが、その前に大事な事は「ボランティアを心 にとめおく気持ちの温かさ」をみんなで持ちあうことではないかと、そんな事を 思ってみたりします。

「情けは人のためならず」、この故事はけっして利己的な保身を意味するもので はなく、人はたえず他を思いやることによって人間社会が営まれていくことの教 えでありましょう。

僕が骨髄バンクドナーとなった大きな理由には、絶えず経済効率を優先させては その危険性を将来へのツケとして先延ばししている核テクノロジーへの憤り、そ してその前にあまりに非力なエネルギーの恩恵の享受者としての自分の存在があ ります。

チェルノブイリ原発事故から10年が経ちましたが、いまだに多数の子どもたちが 放射能汚染のもたらす病苦にさいなまれています。

あれは、体制崩壊末期のソ連だから起きた事故だと片づけることができるほど、 僕たちの回りの核テクノロジーは安全ではありません。

核燃料の燃えかす(放射性廃棄物)の処理法が確立しないまま、当初想定されてい た原子力発電所の耐用年数が今になって延長されようとしています。

形あるものはやがて朽ちていくのが定めですが、一世代の反映を支え続けた世界 各地の原発があちこちで解体の時期を迎え始めています。

毎年、ボランティアの人たちの手でベラルーシ共和国から一月ばかりの保養にやっ てくる汚染地域で暮らすこどもたちを見ていて、この子たちから子どもの表情を 奪いとってしまったものは、単なる不慮の事故のせいだろうかといたたまれない 気持ちになります。

もちろん、血液疾患の要因は放射能ばかりではありませんが、一人ではあまりに 非力に見える自分たちに、今何ができるだろうかと、子どもたちの目線でもう一 度モノとエネルギーに溢れかえった社会を見つめなおしてみたいものです。

帯広十勝にも、北海道骨髄バンク推進協会の支部が7月25日に誕生しました。

ドナーになることは、確かにちょっとした勇気と回りの理解が必要ですが、僕は この体験を通じて、健康であることの意味、そして誰一人として欠けては実現で きない医療スタッフワーキングの頑張りをかいま見た思いがしました。

良質な情報は、すばらしき人間関係によってもたらされるものであることも、改 めて知らされた気がしています。

骨髄バンクはもちろん万能な治療法とは言えないかもしれませんが、この仕組み によって明日に向かっての希望を持つことができる若齢の子どもたちが多数いる ことをどうか心に留め置いていて下さい。

ドナー登録ができなくとも、このボランティアを支援するサポーターにだってな れるのです、どうか、今の自分にできること、考えてみて下さい。

1996.08.17 堀田 誠嗣

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